微生物ウイルス科長 長野秀樹

「喉元過ぎれば熱さを忘れる。」これは危機管理の重要性と難しさを言い表しているように思われます。

「0(オー)157」とは
 平成8年(1996年)、腸管出血性大腸菌O157による食中毒事件が日本各地で発生しました。特に大阪府堺市における事例は、患者数が6000名を超えるという世界でも類をみない大規模な食中毒事件でした。
 北海道では、それまでも年に数人の患者が報告されていましたが、この年から年間100人前後の感染者(下痢症状を示した患者と症状を示さないが菌をもっている無症状保菌者との和)が報告されるようになりました。
 大部分の大腸菌はヒトや動物に対して悪さをすることはありませんが、毒素を産生し下痢症状を引き起こす大腸菌もあります。ある毒素は、ベロ細胞というサルの腎細胞に対して毒性を示すことからベロ毒素と呼ばれ、この毒素を産生する大腸菌をベロ毒素産生性大腸菌あるいは腸管出血性大腸菌と称します。腸管出血性大腸菌とはこの菌による感染症の主要な症状である血性下痢に因んで名付けられました。
 一方、0157とは細菌の表面にある糖脂質(O抗原)の抗原性の種類によって分類される背番号の一つを意味し、他に026や0111などがあります。また、菌の鞭毛抗原(H抗原)の抗原性によっても分類されますが、大腸菌の場合、0抗原とH抗原の組み合わせで型別を行います。
 従って、0157といってもHの型がいくつかあり、0157イコール腸管出血性大腸菌ではありません。腸管出血性大腸菌であることを証明するには、ベロ毒素遺伝子を保有し、かつ当該毒素を産生していることを確認しなくてはなりません。0157でベロ毒素の産生が確認されている血清型は0157:H7と鞭毛を欠いたO157:H−(マイナス)(H抗原がない)の2種類です。

世界に認知される契機
 1982年、米国のハンバーガーチェーン店を原因施設とする大規模な食中毒事件が発生し、O157:H7はその原因菌として広く世界に認知されるようになりました。このときの遡り調査によって1975年の時点でベロ毒素を産生する0157:H7が存在していたことが明らかとなりました。
 しかし本菌の発見はさらに古く1970年代の初頭とされています。日本では、1990年に幼稚園で本菌による集団発生があり2名の園児が亡くなっています。この食中毒事件は日本全国に報道され、0157の名称は広く知られるようになりました。この幼稚園では飲料水として井戸水を利用しており、排水管の損傷により汚水が井戸水に混入し、それが感染源であったとみなされています。
 それ以降も集団感染事例がいくつか報告されましたが、大々的に報道されることはなく次第に忘れ去られていきました。そして1996年の記録的な集団発生へと導かれていくことになるのです。


ヒトに最も感受性の高い菌
 ヒトや動物がこの細菌に感染すると、その体内ではどのような反応が引き起こされるのでしょう。動物の種によって病原菌に対する感受性が違います。この菌の運び屋あるいはヒトの感染源としてよく引き合いに出される牛はほとんど症状を示しません。豚は少し変わったベロ毒素を持った菌に感染し、浮腫病とよばれる特有の症状を呈します。マウスやウサギなどの実験動物は本菌に抵抗性があり、相当量の菌を摂取しないと発症しません。ヒトは最も感受性が高く、100個程度の少量の菌数で発症することもあります。
 ヒトでは、風邪のような症状を伴うことがあり、感染後1日から4日あるいは1週間程度で腹痛を伴った下痢を示します。軽い下痢程度で終わることもありますが、高齢者や幼児では便に血液が混じるいわゆる血性下痢をきたし、さらに重篤化するとベロ毒素の作用で溶血性尿毒症症候群に陥り、さらに脳炎症状を呈して死亡する場合もあります。
 2002年度の細菌性食中毒による死亡者は11名であり、そのうち9名が腸管出血性大腸菌感染症による死亡者でした。


感染をスピードアップさせる今日の流通
 物流が高速化かつ大量化にした今日では、感染者や感染症の原因になる食品や食材も短期間かつ広範囲に広がる可能性が高い。
 具体例を挙げると、1998年、東京都、富山県、神奈川県等で腸管出血性大腸菌0157による感染事例が報告されました。同時に患者から分離された菌株のDNA解析(パルスフィールド電気泳動、PFGEという個々の菌の指紋のようなものを調べる方法)を行ったところこれらの菌が同じ起源に由来することがわかりました。つまりこれらの患者は共通の感染源から感染したことを意味します。
 そこで、疫学調査を含めた感染源調査を進めた結果、北海道産の「イクラの醤油漬け」が原因食品として疑われ、当該食品の細菌検査を実施したところ腸管出血性大腸菌0157が分離されました。この分離菌をPFGEでDNA解析した結果、患者由来株の泳動パターンと一致し、その「イクラ醤油漬け」が原因食品であることが判明しました。
 本事例で特徴的だったことは、同一地域内の狭い範囲内(幼稚園、保育所、小学校など)で起こった事例ではなく、関東・北陸を通じて発生した広域的な食中毒事例であったことです。このような複数の自治体に跨って発生する感染事例を「散在的集団発生(diffuse outbreak)」といい、その他にも「イカ珍味」を原因食品とするサルモネラ食中毒や「さいころステーキ」を原因食品とする腸管出血性大腸菌0157食中毒事例などいくつかの散在的集団発生が報告されています。

感染拡大阻止のシステム
 このような散在的集団発生を未然に防ぐには食品業界における徹底した衛生管理が大前提となりますが、不幸にも発生してしまった場合には、患者の発生を最小限に抑えさらなる拡大を阻止しなければなりません。
 そのためには、散在的集団発生の迅速な探知と感染源となる食品や食材の究明が不可欠です。ここで登場してくるのが前述したPFGEによるDNA解析です。現在、地方で分離された腸管出血性大腸菌はすべて国立感染症研究所に送付され、そこでPFGEが実施されています。
 しかしながら、現状のスタイルでは情報還元の迅速化が図れません。そこで、国立感染症研究所と各地方衛生研究所との間をPFGEを基礎としたネットワークで結ぶことによって、情報集約の迅速化を図ろうとした研究が2000年に始まりました。
 PFGEの精度的な問題やマニュアルの統一化など今後検討すべき課題は多いのですが、このネットワークが構築されると、散在的集団発生の迅速探知や拡大防止が可能となります。
 北海道立衛生研究所では、この研究の北海道・東北ブロックの代表研究機関として研究成果の取り纏めおよび報告書の作成を担当しています。また、これとは別に医療機関からの依頼でベロ毒素の確認検査を実施し当該菌が腸管出血性大腸菌であるかどうかの判定を行っています。さらには集団発生が起こった場合、DNA解析を実施しその結果を行政に還元して、行政現場での予防対策の策定などに利用されています。
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 防疫対策に向けて全国的に取り組んでいますが、国民全体の意識レベルが低下したときに、食中毒事故は発生しやすくなります。天災は忘れたころにやってくるといいますが、人災こそ忘れたころにやってくることを肝に銘じておく必要があろうかと思います。

長野秀樹(ながのひでき)
1959年生まれ。北海道出身。昭和56年帯広畜産大学大学院獣医学研究課程修了。(社)北里研究所に入所し、動物用ワクチンの製造と研究に従事。平成4年から北海道立衛生研究所において寄生虫症の血清診断、細菌学的検査に従事。平成15年6月から現職。獣医学博士。 
 

この記事は「しゃりばり」No.261(2003年11月)に掲載されたものです。