微生物部細菌科長・医学博士 木村浩一

恙無(つつがな)しとダニの関係
 北海道の初夏は天候も良く、休日にはキャンプやハイキングに出掛ける人も多いと思います。私たち衛生研究所の中でも、天気の良い日には山や野原に出掛ける職員がいます。それも人出の少ない快適な平日に。持ち物は、おやつ、お弁当、水筒、鈴、白い大きな布、プラスチック容器、ナタ、唐辛子スプレー、それに爆竹とロケット花火。服装は、全身白で長靴必須です。全身白づくめの男数人が、大きな白い布を持ち、ナタや花火を腰にぶら下げながら山中に入って行く姿は異様です。もちろん、こんな姿でハイキングをするわけではありません。マダニという、大型の吸血ダニを採取するのが目的です。犬を飼っている人には経験があると思いますが、犬を郊外に連れて行って自由にすると、犬は喜んでヤブの中を走り抜け、飼い主の元へまっしぐらに駆け寄って来ます。ここで犬の毛をよく見ると、体長2、3ミリの妙な生き物がくっついているはずです。これがマダニです。北海道では、自然の多い郊外の草むらに、マダニが確実にいると考えてよいでしょう。膝下くらいの高さの草むらを歩けば人間にもしっかり取り付きます。実は、私たちが山に持ち込む白い布はマダニ捕獲用の道具です。この布を草むらの上でひきずると、布の上に、たちまちマダニがくっつきます。一生懸命マダニを採取していて、ふと自分の足を見ると、白いズボンの表面に多数のマダニが取り付き、じわじわ這い上がっているのにびっくりします。マダニは、実にうまい歩き方をするので、直接皮膚の表面を這われても、気付く人は少ないはずです。また、刺咬の時も痛みがほとんどどないので、知らずに血を吸われていることがあります。血を吸っているマダニを「かさぶた」だと思って触らずにいた人とか、「かさぶた」を取ろうとしたが、痛くて取れないなどと言って病院に行く患者さんもいます。私たちマダニ採取班のダニ専門家の中にも、お尻の割れ目にマダニに侵入された犠牲者がいます。
 普通の人は、自分の皮膚の表面をマダニが這っていたら、びっくりして潰そうとするかも知れません。しかし、マダニはとても硬く、皮膚の上でいくら押し潰そうとしてもびくともしません。しかも、マダニの体内には病気を起こす細菌が潜んでいます。万一あなたが大変な力持ちで、マダニを押し潰してしまったらとても危険です。血を吸っている時はさらに危険で、マダニを取ろうとして指で強く押さえると、ダニ体内の病原体を注射してしまうことにもなりかねません。
 ダニが関係する病気は数多くあります。わが国では、古くからツツガムシ病(恙虫病)という病気があります。ツツガムシ病は、古代、重い病気の代表であったらしく、重病もせず健康であることを「恙無(つつがな)し」と表現するのは、聖徳太子の時代から今でも手紙文で使われている慣用句です。

日米のダニの違い
 ツツガムシ病とは反対に、つい最近発見された病気もあります。それが今回のテーマであるライム病です。病気として認識されたのは1975年ですから、聞いたことのない人も多いでしょうが、「感染症新法」では診断確定後に届出が必要とされている病気です。アメリカ合衆国コネチカット州のライム地方で発見されたため、この名が付きました。マダニの体内に潜む、ボレリアというひょろ長い細菌が人間や動物の体の中に侵入して発症する病気です。犬などの動物では関節炎を起こします。人間の場合の症状は、角膜炎、関節炎、多発性神経炎、不整脈、髄膜炎、脳炎などと幅広く、特徴的な症状がないため、これらの症状だけからライム病だと診断することは不可能です。ただし、遊走性紅斑という独特の皮膚症状があります。これは、ダニ刺咬部の皮膚発赤が、徐々に環状に広がっていく紅斑で、ダニに刺咬されたことと遊走性紅斑の2つがあれば、ライム病だと見当を付けることができます。逆に言うと、この2つが分からなければ、ライム病の診断は大変困難です。関節炎だと整形外科、不整脈なら循環器科、髄膜炎や脳炎だと脳外科や神経内科で診てもらうことになるのでしょうが、これらの症状を出す病気はたくさんあり、患者さんが自分でダニに刺されたことを自覚していなければ、正しい診断は期待できません。それでも遊走性紅斑らしき皮膚の発赤があれば、お医者さんはライム病の可能性を考えますが、遊走性紅斑は、ある程度時間が経つと消えてしまいます。日本では現在のところ、ライム病の診断に確実に使える検査方法がないため、ライム病だと分からず、原因不明の関節炎や脳炎として苦しんでいる人たちがかなりいるかも知れません。今、「日本では」と書きましたが、「アメリカ」には有効な検査方法があるのです。ところが、ライム病の病原体であるボレリアは、日本とアメリカで性質が少し違っていて、アメリカの検査方法では日本のライム病を診断できないことがほとんどです。また、日本のボレリアは、ライム病の診断に大変重要な遊走性紅斑を、あまり出さないという特徴があります。このため、日本の病院ではダニに刺咬された患者さんが来ると、念のためにライム病の治療を始めてしまうことが多いようです。ライム病は、診断さえつけば抗生物質で確実に治療できます。しかし、ライム病の診断がつかないと、不適切な治療により症状が悪化してしまうことさえあります。また、精神科疾患として精神病院で治療を受けていたライム病の患者さんの例も報告されており、このような患者さんたちが正しい治療を受けられるよう、日本のライム病を診断するシステムの開発が求められていました。

マダニ対策の常識
 私たち衛生研究所では、3年前から、日本で使えるライム病診断法の開発を目指して研究を進めています。最初に書いた怪しい姿の職員たちは、ライム病の原因である日本のボレリアを集めるためにマダニを採取しているのです。マダニは野生動物によって広範囲に運ばれるため、私たちは、山やヤブのかなり奥の方、普通の人は入らないところにまで行きます。野生動物がたくさんいて、ヒグマもいます。ヒグマに間近にまで迫られ、真っ青になって逃げたこともありました。私たちの持ち物の中の、ナタ、唐辛子スプレー、鈴、爆竹、ロケット花火は、ヒグマ対策なのです。
 そんな危険な思いをしながらマダニを集め続け、今年、ようやく診断法の導入ができるようになりました。もし皆さんがダニに刺咬されたら、皮膚科医などに相談してみて下さい。
 マダニに刺咬されないためには、できるだけ白い服装をして、衣服に付着したダニを発見し易くすることが大事です。靴は、長靴の方が絶対に安全です。また、マダニは、すぐには刺咬しませんから、体を這っているのを見つけたら、慌てずにティッシュなどでつかまえ、ビニール袋に密封してゴミとして捨てれば大丈夫です。すでに刺咬して吸血していたら、直ちに病院に行って取り除いてもらいます。病院が休みなら、先の細いピンセットでダニの口の部分をつかんで取り除いて下さい。ピンセットがなければ、針で皮膚ごとほじくり出します。自分でダニを取り除いたら直ちに消毒し、できるだけ早く病院へ行って検査と治療を受けて下さい。

木村浩一(きむらこういち)
1985年北大医学部卒業。ボツリヌス毒素の遺伝子解析、大腸菌0-157の無毒化、ピロリ菌の胃癌形成過程の解析、ライム病病原体遺伝子の検出などに取り組んでいる。本年2月から道立衛生研究所勤務となり、ライム病以外にも野兎病、炭疽、ボツリヌス症などの検査システム開発に携わっている。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.269(2004年7月)に掲載されたものです。