北海道立衛生研究所微生物部細菌科長・医学博士 木村浩一

ステーキはウェルダンで?
「ウェルダンで」
ウエイター、それに向かいに座る彼女の顔が同時に「えっ」という表情に変わる。「(この上質の肉をウェルダンで食べるのか〜?)」という非難の顔。
学生時代、彼女にいいところを見せようと入った高級ステーキの店で、私は大変気まずい思いをしていた。単に血の味が嫌いでウェルダンでしか食べられないのであるが、何だか悪いことをしているみたいで思わす萎縮してしまった。今なら、「肉類は良く火を通さないとね、生死にかかわる中毒に・・・・」などと、ほとんどステーキと関係のない話を、さも関係ありげに自信満々とひけらかすのだが。
 「良く火を通す」というのは、食中毒を防ぐ上で効果的な方法である。私の家では、開封して少し経ったハムやウィンナーなどは、「特に危ない」ので絶対生で食べてはいけないと母からよく言われていた。なぜハム類だけが特に危ないのか、小さい頃は不思議であったが、これは、非常に稀にしか起こらないが大変死亡率の高い、ボツリヌス中毒からのがれるための民間伝承だったのかも知れない。
今考えると、危ないのはハム類だけではなかったのだが。

ボツリヌス毒素の恐怖
 ボツリヌス中毒は、ボツリヌス菌が産生する毒素(ボツリヌス毒素)によって起こる食中毒で、オウム真理教が生物テロ兵器として使用を試みたので知っている方も多いと思う。最近では、シワ取りの特効薬としてボツリヌス毒素が女性の間で人気が広がりつつあるらしい。
断っておくが、この毒素は猛毒である。私の知るかぎり地球上で最強の毒素である。猛毒とされている他の毒と比較すると、その恐ろしさが分かる。体重60 kgの人間を殺すのに必要な推定最少量は、青酸カリが174 mg、地下鉄サリン事件で多くの被害を出したサリンがその約十分の一弱の12 mg、キノコ毒はサリンの半分の6 mg、VXガス(これもオウム真理教が使用した)はサリンの十分の一の1.2 mg、陸に棲むヘビで最強の毒を出すタイガースネークの蛇毒はサリンの二十分の一の0.6 mg、フグ毒はサリンの四百分の一の0.03 mgである。で、ボツリヌス毒素は、サリンの実に二十万分の一の0.00006 mg(一億分の六グラム)で人間一人を殺すことが出来る。計算上、500 gのボツリヌス毒素があれば全人類を確実に殺すことができる。このため、細菌兵器としての研究開発がいくつかの国で活発に行われていた。1995年には、イラクにおいてボツリヌス毒素を含んだ2万リットルの溶液が見つかり、廃棄されている。
 ボツリヌス中毒の症状は筋肉の麻痺で、重症では呼吸筋も麻痺するために息ができなくなって死んでしまう。意識は最後まであるので、体が動かず、呼吸が出来なくなっていく苦痛と恐怖とにさらされながら死んでいくのだから悲惨なものである。家族全員が同じ料理を食べて皆発症してしまい、筋肉が麻痺しているので助けを呼ぶことも出来ず、一家全員が死亡ということもあった。

ボツリヌス菌の恐怖
 こんな恐ろしい毒素を産生するボツリヌス菌は、土の中で「芽胞」という休眠状態に姿を変え、食物に取り付く機会をじっと窺っている。土で汚れた手や、土の付着した食材をよく洗わないで調理を始めると、ボツリヌス菌の芽胞が食物に混入してしまうかも知れないのだ。
この芽胞というのが大変やっかいな存在で、芽胞状態になったボツリヌス菌は、100℃で10分間加熱しても完全に殺すことが出来ない。それどころか、中途半端な加熱は、芽胞という休眠状態からの目覚めを促進し、毒素をたくさん作らせることになってしまう。したがって、食材に一旦芽胞が混入してしまうと、普通の加熱調理くらいでは菌を殺しきれず、出来あがった料理には、時間の経過とともにボツリヌス毒素がじわじわと蓄積していく危険性がある。
悪いことにボツリヌス菌は嫌気性菌、つまり酸素のない状態で良く増える菌なので、サランラップなどでしっかり包装すればするほど中毒の危険性を増大させてしまうから厄介である。ボツリヌス菌は特に肉類を好んで増える性質があり、ヨーロッパではソーセージやハムが中毒の原因となることが多かった。
そもそも「ボツリヌス」は、ラテン語のbotulus(腸詰め、ソーセージ)から命名されたものである。現在のソーセージやハムには防腐剤が入っているものの、一旦開封し手で触った後は、ラップに包んだから大丈夫などと安心せず、早めに食べてしまうべきである。
日本では過去の例では魚肉が原因となることが多く、北海道や東北でイズシ、キリコミといった食品によるボツリヌス中毒が起こっている。
ホウレン草の缶詰や芥子レンコンの様に肉類が入っていない食品で中毒が起こったこともあるので注意が必要だ。

やっぱりウェルダン!
  この様に恐ろしいボツリヌス中毒であるが、幸いなことに毒素そのものは「芽胞」と違って熱に弱く、80℃で30分、あるいは100℃で10分の加熱により毒性を失ってしまう。したがって、食べる直前に十分加熱しておけば、たとえ菌は生き残っても毒素は消えるので、ボツリヌス中毒による悲惨な死からは逃れることが出来る。
生き残っているボツリヌス菌の方は、たいていの場合、腸内の大腸菌たちが退治してくれるので、要はウェルダンにしておけば理論上は安全ということだ。冒頭の彼女とウエイターには、これを強く主張しておきたいと思う。
また、ボツリヌス菌が増えた食品はかなり臭いので、明らかに「腐っている」匂いがする食品は、基本的に食べないようにするべきだ。
世の中には、「腐りかけが美味いんだ」というグルメの方も多いようだが、命を張ってまで食べるほどの美味しさではないだろう(と、ステーキをウェルダンで食べる私は思う)。

乳児ボツリヌス症
 さて、先ほど、大腸菌たちがボツリヌス菌を退治してくれると書いたが、1歳未満の乳児の腸内には、成人のような大腸菌たちがまだいないので、生きたボツリヌス菌が腸内に入ると、腸内でボツリヌス菌が増え、産生された毒素でボツリヌス中毒を起こしてしまう。これを乳児ボツリヌス症といい、かつて、離乳食として使われることの多かったハチミツにボツリヌス菌の芽胞が混ざっていて、これを食べてしまった乳児に起きた例が多かった。
ハチミツは自然界で蜂が集めて来るものであるから、ボツリヌス菌の芽胞が混ざることは当然あり得ることで、しかも芽胞であるから、多少の加熱では菌が死ぬこともない。このため、1987年には、1歳未満の乳児にハチミツを与えないよう勧告が出されている。
ハチミツ以外にもコーンシロップや野菜スープが原因と疑われる例はあるが、これらについては、まだはっきりしていない。

女性は・・・スゴイ
 10年ほど前までは、ボツリヌス毒素など、生物兵器以外には使い途がないと思われていたが、筋肉を麻痺させるという性質を利用し、筋の異常な緊張で起こる頸性斜頸や斜視などへの治療薬として用いられるようになった。こんな恐ろしい毒素を使いこなしてしまうのだから、人間というのは本当にすごいと思う。
しかし、それにもまして、顔のシワを取るためにボツリヌス毒素を使用しようという女性の度胸とパワーには心底恐れ入るばかりである。

木村浩一(きむらこういち)
1985年北大医学部卒業。ボツリヌス毒素の遺伝子解析、大腸菌O157の無毒化、ピロリ菌の胃癌形成過程の解析、ライム病病原体遺伝子の検出などに取り組んでいる。本年2月から道立衛生研究所勤務となり、ライム病以外にも野兎病、炭疽、ボツリヌス症などの検査システム開発に携わっている。