北海道立衛生研究所生物科学部主任研究員 川瀬史郎

ゲノム解読とその先
 2001年2月にヒトのゲノム(全遺伝情報)解読の概要が公表されました(完読宣言は2003年4月)。これに続き、マウスとラットのゲノム解読の結果がそれぞれ2002年12月、2004年4月に公表され、これら動物間のゲノムの比較によってヒトの病気に関する遺伝子解析が飛躍的に進むと期待されます。こうした流れは医学分野にとどまらず、イネ、ウシ、カイコ、ニワトリ、マツタケなど多くの生物資源にも及び、解読一番乗りの応用面での優位性を念頭に、各国及び民間レベルでの熾烈な先陣争いが繰り広げられています。
 ゲノム解読にはおよびませんが、当所でも、いち早く遺伝子解読技術の導入が図られ、1991年には食中毒の原因となるボツリヌス菌のD型毒素遺伝子の解読に成功しています。これら各種病原体における遺伝子解読の成果は、迅速検査法や感染症の診断などに役立てられています。こうした遺伝子関連技術は、今後の北海道の基幹産業を担うと期待されるバイオおよび環境・医療など広範な分野への導入や応用開発の発展性が見込まれることから、その重要性が益々増してくると考えられます。
 そこで過熱するゲノム解読競争の一方で、早くもその先を見越し、遺伝子産物(タンパク質)の解析に焦点を当てた(いわゆるポストゲノム)研究や、さらにそのタンパク質機能に多様性を与える糖鎖に関する(次世代ポストゲノム)研究などもすでにスタートしています。
 ゲノムが解読されたとはいっても、それはいわば生物それぞれの遺伝設計図の暗号配列がわかったに過ぎず、そこに含まれる個々の遺伝子機能やその制御機構など具体的な遺伝現象の解析については、そのほとんどがこれからの研究にかかっているのです。
 今回はこうした最新の研究の一端を動物モデルを例にみてみることにしましょう。

マウスモデルの利用
 ヒトの遺伝子数は、10万個ほどと予想されていましたが、ゲノム解読の結果、実際には、約3万個と意外に少ないものでした。しかもその99%がマウスと同じで、遺伝子だけからみると、ヒトはしっぽのないマウスとさえいわれるほどです。マウスがヒトのモデルに適する所以です。
 例えば、ヒトのある病気で、多くの患者さんの特定の遺伝子が、健康なヒトの遺伝子と違っていたとすると、それが病気の原因である可能性が高いわけです。その可能性を確かめるためにマウスを用い、有名なコッホの原則にならって調査を行います。
 コッホの原則とは、感染症の原因病原体を決めるための考え方のひとつで、その中に、原因病原体の候補を動物に感染させて、同じ病気を起こさせることができるかどうかを確かめることが挙げられています。
 もちろん、遺伝子と微生物とは違うものなので、この原則をそのままあてはめるわけにはいきませんが、これをお手本にすることができます。すなわちヒトの病気の原因が、ある遺伝子の変化によると予想される場合、それと共通のマウスの遺伝子に変化を起こさせ、マウスにヒトと同じような症状が出るかどうかを調べるのです。こう書くと簡単そうですが、遺伝子操作技術に関するたゆまぬ研究成果の積み重ねにより、このようなことが実際に可能になってきました。

マウスを用いる遺伝子操作技術
 遺伝子操作技術は、はじめ細菌など単純な生物モデルで試されました。こういったモデルでは、外から短い遺伝子の断片を細胞の中に入れてやると、この断片と似た構造を持つ、もとからあった遺伝子と比較的簡単に入れ替わります。
 しかしマウスのような高等生物では、卵に外から遺伝子断片を入れてやるだけでは、入れ替わりはめったに起こらず、長いゲノムの適当な場所に短い外来遺伝子がランダムに入り込み、もとからあった似た遺伝子もいっしょにそのまま残るのです。それでもこのような卵から生まれて成長し大人になったマウスの精子や卵に外来遺伝子が入り込み、子孫にこれが受け継がれていくようになれば、こういったものをトランスジェニック(遺伝子導入)マウスと呼び、組み込まれた外来遺伝子をトランス遺伝子と呼びます。
 その後、マウスでも、導入遺伝子をもとからあった似た遺伝子とそっくりそのまま入れ替えることができる画期的な技術が開発されました。これを遺伝子ターゲティング(ねらい撃ち)といいます。
 この技術を応用し、例えば、機能を無くした遺伝子を外から入れ、もとの正常な遺伝子と入れ替えて(すなわち遺伝子を働かなくして)その遺伝子本来の機能を調べることが可能になりました。こうした目的でつくられたマウスをノックアウトマウスといいます(のびたマウスのことではありません)。
 また病気の原因となる遺伝子を組み込むことにより、ヒトの病気のモデルマウスをつくることもできます(これが前述のコッホの原則に沿ったものです)が、このようにしてつくられたものをノックインマウスといいます。
 ただし、もとの遺伝子が生存に不可欠であったり、また例えば胎児期に重要な働きをしているような場合、機能を無くした遺伝子と入れ替えると、胎児の成長は止まり、生まれる前に死んでしまいます。したがってこの種の遺伝子のノックアウトマウスを得ることは困難です。
 そこで最近は、導入遺伝子に特殊な細工を施し、入れ替わっただけでは遺伝子機能は保たれていて、その後、薬剤の注射によって、導入遺伝子の細工した部位を働かせ、遺伝子の一部を切り出しその機能を失わせるようなものが開発されました。こうすれば、胎児は生まれるまでは遺伝子本来の働きにより生存が保障され、生まれた後、思い通りの時期に薬剤を注射することによって、入れ替えた遺伝子をノックアウトすることが可能になるのです。いわば時限爆弾のようなもので、このようなものを特にコンディショナルノックアウトマウスと呼びます。
 現在では、以上のような各種のトランスジェニックマウスが盛んにつくられ、色々な遺伝子機能の解析やヒトの病気との関連について、目覚ましい成果が得られているのです。

当所で開発された動物モデル
 当所では、残念ながらまだトランスジェニック動物をつくる態勢が整っていません。そこで、繁殖中に自然に出現した有用な突然変異体を動物モデルとして確立し、利用しています。
 そうした中に、自己免疫性胃炎から胃がんへと進行するユニークな疾病モデルがあります。これはコトンラットと呼ばれるアメリカ大陸原産のネズミで、「自己免疫」と「がん」という現代医学の課題をあわせもつ珍しいモデルです。
 ノルウェーの研究者がこれに強い関心を示したことから、数つがいが空輸され、当地で新たに「ジャパニーズコトンラット」と呼ばれる繁殖コロニーとなって、医学研究に役立っています。当所で、昔ながらの方法で開発されたモデルでも、それはそれなりに役立つこともあるというわけです。


川瀬史郎(かわせしろう)
1947年網走生まれ。1970年弘前大学理学部生物学科卒業。同年より山之内製薬中央研究所にて毒性試験に従事。1975年Uターンにより北海道立衛生研究所に勤務。1998年コトンラットと共にノルウェーNTNU医学部(トロンハイム市)を訪問。2003年より現職。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.277(2005年3月)に掲載されたものです。