北海道立衛生研究所健康科学部生活保健科研究員 小島弘幸

 1997年の秋、前年に米国で話題となった「奪われし未来(Our Stolen Future)」(シーア・コルボーンら著)の邦訳が国内で発売されました(図1)。その内容とは、我々がよく知っている農薬などの環境中の化学物質がホルモンのようにふるまい、生物の内分泌系をかく乱して、野生生物などの生態系を狂わせ、将来的には人類が子孫を残せないかもしれないという衝撃的なものでした。当時、日本ではこのことがマスコミを中心に大きく取り上げられました。当時のNHK教育番組「サイエンス・アイ」では、井口泰泉・横浜市立大学理学部教授(現・岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所教授)が環境中に存在し生体のホルモン作用をかく乱する化学物質を一般人にも分かりやすく「環境ホルモン」と名付け解説されたことから、一挙にこの問題が身近なものとなりました。「環境ホルモン」は、1998年の流行語大賞の上位に入ったことからも社会的関心の高さが伺えます。


図1 奪われし未来

環境ホルモンとは
 環境ホルモンは俗称ですが、学術的な名称は「外因性内分泌かく乱化学物質」といい、「生体の恒常性、生殖、発生あるいは行動に関与する種々の生体内のホルモンの、合成、分泌、体内輸送、結合、作用、あるいはその除去などの諸過程を阻害する性質をもつ外来性の物質」と定義されています。欧米諸国では、Endocrine disruptorsあるいはEndocrine disrupting chemicalsと呼ばれています。とくに、米国では1980年代から女性ホルモン(エストロゲン)類似の作用を有する化学物質を環境エストロゲン(Environmental estrogen)として研究が進められていました。環境ホルモンが地球環境や私たちの生活環境に存在し、人や野生生物に深刻な影響を与えているのではないか、という可能性をめぐって議論されているのが「環境ホルモン問題」(または「エンドクリン問題」)です。では、このような環境中の化学物質は主にどのようにして作用を発揮し、どのような種類があるのでしょうか?

環境ホルモンの作用と種類
 生物のホルモンには様々な種類がありますが、環境ホルモン問題で中心となるのは、主にエストロゲンや男性ホルモン(アンドロゲン)などの性ホルモンです。これらのホルモンは、ごく微量で生体のある決められた蛋白質(受容体)と結合して作用を発揮します。環境ホルモンも微量でこれらの受容体と結合することにより、ホルモン作用を発揮したり、本来のホルモン作用を阻害(邪魔)して、ホルモン作用をかく乱します。ホルモンかく乱作用が疑われる環境中の化学物質は、農薬や工業化学品が挙げられます。これらの化学物質のほとんどは、ある種の定められた毒性試験により安全性が確認されていますが、ホルモンかく乱作用の観点からは評価されていません。また、ヒトを含む動物由来の天然の性ホルモンや、植物が作り出す天然の物質など自然界に存在する多くの物質についてもホルモンかく乱作用が懸念されています。現在も研究が行われていますが、その種類はかなり多数に上ると考えられています。環境ホルモンとして疑われている物質をグループ分けしてみると以下のようになります。(1)農薬、(2)工業化学品、83)ダイオキシン類、(4)動物由来の天然の性ホルモン(環境中に排出されたホルモンは、他の動物に対する環境ホルモンとなり得る)、(5)合成エストロゲン(医薬品として合成されたエストロゲンの類似物質)E植物エストロゲン(植物の中にあるエストロゲン類似物質で少なくとも20種類が知られている)Fその他の化合物。

環境ホルモン問題の現状
 環境ホルモン問題に関しては、過去の環境問題に対する反省から政府の反応は素早く、その対策に多額の費用を投じて調査・研究が開始されました。これまで国内において、環境ホルモンが原因となり、野生生物において生殖異常が認められた代表的な事例としては、以下の2つが挙げられます。(1)「ある川に棲む魚がメス化している」(2)「近海に棲む巻き貝のメスがオス化している」という現象です。(1)については、汚水処理場から流出したヒト由来の女性ホルモンが河川を汚染していたことが原因となっています。(2)については、船舶の船底塗料に用いられていた有機スズ化合物が原因とされていますが、このことは、1997年よりも10年以上前から知られていた現象でした。有機スズ化合物は、既に1990年頃には船舶への使用が禁止され、現在の近海での汚染レベルは減少しています。ヒトに関しては、臍帯血に多くの環境ホルモンが存在していることや、最近の若者における精子の数・運動率が低下傾向を示すことなどの調査報告があります。また、最近の分子生物学の技術により、今まで分からなかった性ホルモンの作用メカニズムを遺伝子レベルで詳細に説明できるようになったことは大きな成果だといえます。当所でも、ホルモン受容体の遺伝子を細胞に導入して、農薬を中心にホルモンかく乱作用を調べたところ、多くの農薬が複数のホルモン受容体を介して作用することを明らかにしています。しかしながら、10万種類とも言われる身の回りの化学物質が人体のホルモン作用をかく乱し、健康や子孫繁栄に影響を及ぼすか否かについては、依然として仮説の域を出ていません。

今後の課題
 環境ホルモン問題は、これまであまり議論されなかった環境中に放出された多くの化学物質について、それらの危険性を考える良い機会になったと思います。「環境ホルモンは人類を滅ぼす!?」という類の過度の心配は必要ありませんが、次世代への影響や膨大な化学物質の種類を考えると、「これは仮説でしたので大丈夫です!」とも簡単には言えません。とくに、胎児期のある時期に女性ホルモン様物質に曝露されると、内分泌系以外にも脳神経系や免疫系に悪影響を及ぼすことが報告されており、成人よりも胎児を含む乳幼児への影響が懸念されています。この点はさらに、研究が必要となるでしょう。化学物質の面から考えると、これまでは女性ホルモン受容体との結合に関する研究が多いのですが、実は化学物質と結合する受容体はホルモン受容体を含めて他にも数十種類存在することから、これらとの反応性を化学物質ごとに把握する必要があります。また最近では、室内空気中化学物質が原因で誘発されるシックハウス症候群や化学物質過敏症などの疾患も増えており、環境ホルモンとの関係からアプローチする研究も数多く見られます。現在、当所でも大学等と連携して、この方面からの研究を進めています。もう一つ重要な現象として、最近の児童に見られる注意欠陥多動性障害(ADHD)の増加があります。この障害の原因は明らかでありませんが、動物実験の結果から胎児期における化学物質の曝露を示唆する報告もあります。今後はこれらの事象を含めて化学物質に対する対策や研究がより一層必要になると思われます。
 環境ホルモン問題は生物のメス化やオス化に関わるという単純な話ではなく、これまでの多種・多様な化学物質に依存してきた社会に警告を発していると考えるべきでしょう。この問題を語る上で世の中の流行に捕らわれる必要はありません。公衆衛生に携わる研究者にとっては、環境ホルモンによる健康被害を未然に防止するための予防原則に従い、これからも地道な研究が求められています。

小島弘幸(こじまひろゆき)
1963年生まれ。札幌市出身。84年北海道大学薬学部衛生化学講座卒業。86年北海道大学大学院薬学研究科修士課程修了。博士(医学)。製薬会社勤務を経て、89年北海道立衛生研究所薬理毒性部薬物農薬科勤務。2002年から現職。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.282(2005年8月)に掲載されたものです。