北海道立衛生研究所食品薬品部食品科学科長 新山和人

 現在、わが国における食の安全・安心に対する関心はかつてない程の高まりを見せています。その中でも残留農薬の問題は大きな要因になっていると思われます。これまでもポストハーベスト農薬(収穫後に使用される農薬のことで日本での使用は認められていない)などに対する不安が指摘されていましたが、2002年の夏から秋にかけて、中国産冷凍野菜から国内の基準を超える農薬が検出された事例や、発がん性が指摘されている無登録農薬が果実などに広く使用されていた事例などが相次いでみつかり、大きな社会問題となりました。これらの問題に対応するため、農薬取締法の改正や後述するポジティブリスト制への移行などいくつかの対策が進められています。

農薬とは
 一口に農薬と言ってもその使用目的や作用は非常に多様で、わが国における農薬の登録・販売・使用等を規制している農薬取締法の中では、次のように定義されています。「農薬とは農作物(樹木及び農林産物を含む)などを害する菌、線虫、だに、昆虫、ねずみ、その他の動植物またはウイルスの防除に用いられる殺菌剤、殺虫剤その他の薬剤及び農作物等の生理機能の増進または抑制に用いられる成長促進剤、発芽抑制剤、その他の薬剤をいう」。また、近年環境への配慮などから、捕食昆虫などを使用する「生物農薬」も開発されており、農薬取締法の中でも「前項の防除のために利用する天敵は農薬と見なす」とされています。この定義に従うと、畑で草取りをするおばあちゃんも農薬になるのかという笑い話もありますが、とにかくかなり広範囲にわたるものであることはお分かり頂けると思います。
 なおゴルフ場で使用される薬剤は農薬ですが、家庭内で用いられる殺虫剤は農薬とは別に扱われます。

農薬使用の歴史
 自然界では多様な生物がバランスを保ちながら生息しています。太古の採取生活から、人間にとって都合の良い単一の農作物を栽培する農耕生活への移行は、このバランスを崩すことになり、農作物に好ましくない病害虫の大発生は、ある意味で必然とも言えることでした。過去においてイナゴやウンカ類などの大発生による不作と、それに続く飢饉の記録が多く残されています。農業の歴史は病害虫との闘いの歴史でもありました。
 科学技術の発達していない時代には、虫除けは神頼みが唯一の手段でしたが、その後徐々に実用的な農薬が出現することになりました。わが国では、江戸時代には既に鯨油がウンカ類の防除に用いられたとされています。その後、高価な鯨油に換わってナタネ油や石油などを用いた注油駆除法が広く行われました。これは水田に油を注ぎ、その油膜にウンカ類を払い落として害虫の気門を塞ぎ窒息死させる方法で、第2次世界大戦後の有機合成農薬使用に代わるまで行われていました。その他にも、除虫菊の成分(ピレトリン)やボルドー液(塩基性硫酸銅)などの天然物や無機化合物を主体とする農薬も使用されていました。
 第2次世界大戦後になると、DDT、BHCやドリン剤などの有機塩素系殺虫剤や、パラチオンなどの有機リン系殺虫剤あるいは有機水銀殺菌剤などの有機合成農薬が輸入され広く使用されるようになりました。これらの農薬は、非常に強い効力を持つことから、短期間で大量に使用され、病害虫防除の面では大いなる貢献をしました。しかしながら、これらの薬剤は環境への残留性あるいはヒトを含む高等生物への毒性が強いことなどが明らかになり、1970年前後に相次いで使用されなくなりました。
 現在では環境や他の生物への影響に配慮された農薬が開発され、使用されています。また、農薬の改良に加えて使用方法も抑制的になっており、わが国の農薬生産量は1980年の約70万トンをピークに減少傾向を示しており、2000年には約35万トンと半減しています。

ポジティブリスト制
 わが国では、適切な農薬使用及び安全な食品の確保を目的とする、農薬取締法及び食品衛生法の2つの法律があります。農薬取締法には、あらかじめ残留性や毒性に関するデータを提出し、一定の基準(登録保留基準)を満たして農林水産大臣の登録を受けた農薬以外は使用できないと定められています。現行の法令に基づいて農薬が適切に使用されれば、農産物の安全は確保されると考えられます。しかしながら、事故あるいは意図的な違反により不適切な使用が行われた場合、安全な食品の確保が出来ない可能性があります。そのため食品中の農薬の残留基準が定められています。これまでわが国では、食品衛生法の中で200余りの農薬について農産物ごとに残留基準値が定められていました。しかし、この制度では仮に基準値の定めがない農薬が高濃度に残留していても、その食品の流通を止めることが出来ませんでした。このような現状を改善し、特に国内の基準がない農薬の使用も考えられる輸入農産物などに対応するために、ポジティブリスト制への移行(遅くとも2006年5月までに施行)が決まりました。ポジティブリスト制とは、リスト内に設定された残留基準値を満たしている食品以外は原則として流通が禁止されるという制度で、現在農産物で600弱、畜水産物で300程度の農薬について、安全性に関するデータなどから基準値が定められる予定です。

残留農薬分析
 このように制度が整備されても、それだけでは絵に描いた餅で終わってしまいます。その効果を保証するために必要なのが、流通する食品についての残留農薬分析の実施です。
 当所では、長年にわたって道産農産物や輸入農産物及びその加工品などについて、残留農薬検査を行ってきており、それらのデータについてはその都度公表しています。また、最近では環境ホルモン作用に注目した農薬の安全性に関する調査研究を行っており、その結果も公表しています。
 通常の残留農薬分析では、濃度としてppm (百万分の1)、ppb(10億分の1)などの、非常に微量の物質を検出しなければなりませんし、全ての農薬を一挙に分析できるわけでもありません。農薬分析のためには専用の高価な機器が必要となりますし、人手や費用がどうしても掛かってしまいます。現在、新たに分析対象となる農薬を含む多数の農薬を同時に分析できる一斉分析法の検討を行っているところですが、今後も農薬が適切に使用され、安全な食品が供給されるため、行政による不断の監視と残留農薬分析データの蓄積がますます重要になると考えられます。

新山和人(にいやま かずひと)氏
1950年札幌市生まれ。1975年北海道大学理学研究科化学専攻修士課程修了。同年より北海道立衛生研究所食品科学部乳肉科、1988年より同栄養化学科、1997年より同食品科学科において食品衛生に係る調査研究に従事。学術博士。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.284(2005年10月)に掲載されたものです。