北海道立衛生研究所副所長 澤田幸治

北海道とエキノコックス
 今年9月始めに、「埼玉県で捕獲された犬の糞からエキノコックスの卵が検出された」と報道され、注目されました。検出された虫卵の遺伝子を検査したところ、北海道内で見られるエキノコックスと遺伝子が同じだったことから、野犬となっていたこのイヌが北海道内で飼育されたことがあると判断されたようです。そういえば、ムツゴロウさんの「動物王国」が北海道から東京都へ移設されるときにも、「動物たちがエキノコックス症に感染していないか検査をして欲しい」という要望が出されていました。
 エキノコックスは条虫といって、成虫はキツネやイヌの腸管に寄生し、体長は数ミリメートルと非常に小さい寄生虫です。ヒトの腸管に寄生して体長が数メートルにもなるサナダムシも条虫の仲間ですが、大きさも性質もずいぶん違います。北海道にみられるエキノコックスは多包条虫という種類で、幼虫時代を野生ネズミの肝臓などで過ごし、このネズミを食べたキツネやイヌの腸管内で幼虫が成虫になり、卵を造ります。この卵がネズミのロに入ると腸で僻化して肝臓に移動して、幼虫となります。水や野菜などの食物や手指を介して卵がヒトの口に入ると、ネズミの場合と同じように、腸で孵化して肝臓などに移動して、幼虫として増殖するのです。ヒトに感染するのはキツネやイヌが糞と一緒に排泄する虫卵ですから、感染したヒトやネズミから別のヒトに感染することはありません。
 都市部を含めて全道にキツネが生息し、その30〜60%がエキノコックスに感染しているといわれています。飼い犬が散歩などの折に自由に動き回る所はキツネの行動圏にもなっていますから、ネズミを捕らえて食べると感染する危険があります。飼い犬は野生のキツネよりもずっと深く人の生活にかかわっているので、イヌの感染はヒトにとって危険度が高いのです。

住民健診と血清診断法の開発研究
 ヒトがエキノコックスに感染すると、手術で病巣を取り除く以外に完治する方法が無いため、早期発見のための診断法が必要でした。これまで、衛生研究所においてもいろいろな免疫学的検査法が考案されました。
 特に、昭和58年(1983)に開発されたエライサ(ELISA)法は感染者の血清中に含まれるエキノコックス成分(抗原)に対する抗体を検出する方法の一つで、多数の血清検体を比較的簡便に検査することが出来、それまでの方法に比べて感度が良く信頼性も高いため、住民健診のスクリーニング方法として最適の方法でした。昭和59年からこの方法が取り入れられ、全道の市町村による一次健診受診者は年間10万人近くにまで急増しました。
 さらに、昭和62年(1987)に開発されたウエスタンプロット法を用いた検査法は、特別な抗原と反応する抗体を検出できるため特異性と感度に優れており、一次健診で陽性となった場合の確認検査法として活用されてきました。
 これまでに検査を受けて陽性あるいは疑陽性と診断された血清検体には、大きく分けて2つの型が見られます。一つは分子量5万5千(55kD)から65kDに相当する抗原(抗原U/3の全長)とおよそ28kDから35kDに亘って幅広く検出される抗原(C抗原)を始めとする多数の抗原に対する抗体を含むタイプ(完全型)であり、もう一つはC抗原のみを強く検出するタイプ (不完全型)です。
 この数年、外国のグループも含めて、より小さな抗原と反応する抗体に注目して検査をするように改良が加えられました。現在当所では、7〜8kD、18kD、26〜28kDの3種の抗原のうち2種以上を検出した場合に陽性、26〜28kDのみの場合は疑陽性と判定しています。最近、18kDタンパクは55〜65kDタンパク(抗原II/3の全長)が酵素によって分解された断片であることが、他の研究グループによって示されましたが、これは当所が以前から55〜65kDタンパクを判定に用いていたことの有効性を証明したことになります。
 また、多くの症例を検討する中で、18kDタンパクを全く検出しない症例が複数見つかっており、単一の抗原を用いて調べるのではなく、3種類の抗原を用いて調べる当所の検査方法が、見落としを少なくする上で有用であることも実証されています。

スクリーニング検査の効果
 昭和59年(1984)以降、住民健診としてのスクリーニング検査を受診した道民の総数は130万人に達しています。年平均6万5千人の受診者から5〜6人前後の患者を新たに発見してきました。昭和58年(1983年)以前の患者の治癒率が40%前後であったのに比べて、昭和59年〜60年の発見患者20例の5年生存率は100%と向上しました。
 スクリーニング検査は無症状の住民から感染者を見出す検査であるため、早期発見につながり、手術で完治する割合が高くなります。体の不調を訴えて病院外来を受診した人の中からエキノコックス症患者が発見される場合に比べて、明らかに予後が点く完治する率が高くなっています。

遺伝子レベルの研究と検査診断法
 エキノコックスは世界中に分布しています。北海道にみられる多包条虫は北半球に分布しており、一方、日本以外の世界中の牧畜地域には単包条虫が分布しています。現在の「感染症法」のもとではこれらを区別して診断することが求められ、また飼い犬についてもエキノコックス症を診断した場合は獣医師が保健所に届け出ることになっています。多包条虫と単包条虫は極めて近縁であるため血清学的に鑑別することは困難な場合があります。この問題を解決するために当所では遺伝子検査法の研究に取り組んできました。現在では、手術で切除したヒトの病巣はもとより、感染したネズミの病巣、キツネやイヌの便や虫卵のDNAを解析して、その違いをもとに多包条虫と単包条虫とを明確に区別することが出来ます。ヨーロッパなど外国の多包条虫と北海道の多包条虫のごくわずかな違いを区別することも可能です。
 また、当所では遺伝子組換え技術を用いて血清診断用のタンパク抗原を作り出す研究も進めて、優れた抗原を見出しており、その他複数の組換え抗原を組合せてエライサ法やウエスタンブロット法などに応用して新しい検査法を開発するための研究を進めています。このような遺伝子レベルの研究がエキノコックス対策用のワクチンの開発にまで発展して欲しいという夢をもっています。そして50年に亘るエキノコックス症の研究は今秋の保健文化賞受賞という結果となり、所員一同感慨も一入です。

豊かで安全な北海道
 「それぞれの研究」シリーズで紹介してきた当所の取り組みは、いずれも道民の皆さんの健康と衛生の維持・向上に貢献してきたものと自負していますが、北海道の財政難は当所にも大きな影響を及ぼしてきており、今後さらに厳しくなると予想されます。
 今年度から、当所も文部科学省の科学研究費を申請することができる研究機関として認定されましたので、道民の皆さんの役に立つ研究計画を立てて積極的に応募することにしています。
 知床が世界自然遺産に登録されたり、国際的に価値のある多くの湿地があるなど、北海道は自然に恵まれています。また、豊かな食糧生産地であり、団塊の世代が続々と退職し始めると道内への居住希望者も増えるかも知れません。豊かで安全な北海道をアピールしてみんなで享受するためにも夢をもって研究を続けたいものです。

澤田幸治(さわだ ゆきはる)氏
平成12年より生物工学室長、平成14年生物科学部長、平成15年より副所長。エキノコックスの遺伝子解析や組換え抗原の研究に従事。
 
 

この記事は「しゃりばり」No.286(2005年12月)に掲載されたものです。