北里柴三郎と森鴎外とノーベル賞と
北海道立衛生研究所感染症センター微生物部細菌科長 木村浩一


妨げられた?ノーベル賞-北里柴三郎

 時は明治中期、文明開化に必死の日本は、優秀な人材を当時の科学の中心であったヨーロッパに次々と留学させていました。森鴎外は陸軍、北里柴三郎は内務省の留学生です。森鴎外は留学時まだ22歳でしたが、当時最年少(19歳)で東大医学部を卒業した超エリート、後に軍医としての最高位、陸軍軍医総監の座にのぼりつめ、陸軍省医務局長の椅子につきます。一方の北里柴三郎は源氏の流れを組む名門武家の出、武士となる夢を明治維新により絶たれますが、顕微鏡で見た人体の組織に魅せられて東大医学部に入ります。卒業後は衛生事業を志して内務省衛生局に入り、2年後、ドイツのコッホのもとに留学します。当時、コッホはパスツールと並ぶ医学界の巨人でした。それまで、病気の原因というのは全く分かっておらず、治療は経験的あるいは迷信的な方法のみで、今から考えると病気を悪化させるような「治療」も行われていました。しかし、この二人の巨人は、病気の原因として「細菌」という微生物の存在を初めて明らかにしたのです。

北里の快進撃
 このコッホのもと、北里は一気にその才能を開化させ、まずは世界初、破傷風菌の純粋培養に成功します。破傷風は、傷口から入り込んだ破傷風菌の出す毒素によって起こる病気で、全身の筋収縮、つまり、全身「足がつった」状態となり激烈な痛みに苦しみながら死んでいきます。この破傷風菌は嫌気性菌、すなわち酸素があると死んでしまう変な生き物なのですが、当時そのような菌があることは誰も知りません。培地に他の雑菌が混ざった時のみ破傷風菌が増えるため、「他の菌との共生によってのみ生存可能」であり純粋培養は不可能と考えられていました。しかし北里は破傷風菌の増え方から「酸素を嫌う」という仮説を立て、「嫌気培養」という方法を考案して純粋培養を成功させます。北里はさらに、破傷風の治療として「血清療法」という革新的な方法を開発します。それまで、感染症に対してはパスツールによって確立された予防接種、すなわち「予防」方法しかなく、「治療」することはできなかったので、病気を「治療」できる血清療法は、医療の革命でした。およそ50年後に抗生物質が使用されるようになるまで、多くの感染症に血清療法が行われ、死亡率を激減させました。ちなみに、破傷風には現在でも北里の開発した血清療法を使っています。

忘恩の輩? 北里
 北里はコッホ四天王の一人に数えられ、世界中で争奪戦が始まります。イギリスは、細菌研究所を設立し北里を所長に迎えようと働きかけ、アメリカは、年額40万円(現在の価値で約40憶円)の研究費と年額4万円(約4億円)の報酬を提示しました。しかし、北里は科学後進国である日本の科学推進、国民の健康増進のためにすべての誘いを断り、日本に帰国します。帰国の際、ドイツ皇帝は明治天皇に対し北里を絶賛するメッセージを送り、北里にはドイツ人以外には与えたことのない「プロフェッサー(大博士)」の称号を贈りました。こうして日本に帰ってきた北里ですが、当時日本では医学研究施設は東大にしかなく、留学から戻った内務省では研究が出来ませんでした。しかし、この世界的な研究者の受け入れを東大は完全に拒否します。実は、北里は留学直前に緒方正規(当時東大医学部講師) から細菌の扱い方を習いました。つまり、緒方に弟子入りしたのです。この緒方は北里が留学したその年に「脚気菌」を発見したと発表しました(当時日本では年間3万人が脚気で死亡するという深刻な状況でした)。留学中の北里は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係である」という論文を発表します。脚気はビタミンB1の不足で起こる病気なので北里の発表の方が正しいのですが、弟子である北里が師である緒方に逆らったのですから、東大では忘恩の輩として非難の嵐が吹き荒れました。森鴎外も北里を激しく非難する論文を発表しています(東大の脚気菌派の人々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、日清・日露戦争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた上、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎を散々批判し、彼のノーベル賞受賞のチャンスをもつぶすことになります)。内務省は、このままでは研究の道を経たれた北里が国外に去ってしまうと、感染症研究所の設立計画を閣議に提出しますが、廃案にされてしまいます。そこで内務省はOBを介し福澤諭吉に助けを求めました。福澤諭吉は、すぐれた学者を擁しながらこれを無為に置くのは国家の恥だと、自分の所有地を提供し私財を投じて研究所を建設してしまいます。北里が帰国した1892年暮れのことです。福沢の友人、森村市左衛門(TOTO、INAX、日本碍子などの創始者)が研究設備や機器の購入代金を寄付しました。こうして日本車初の伝染病研究所は民間の力によってスタートし、やがて、コッホ研究所、パスツール研究所と並んで、世界3大研究所の一つと称されるようになるのです。

ノーベル賞を逃す
 北里の伝染病研究所からは、27歳で赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎、さらに野口英世ら優秀な人材を次々と輩出します。北里自身も、1894年、ペストが流行している香港に内務省から派遣され、到着2日後にはペスト菌を発見してイギリスの雑誌に発表、コッホの追試によって間違いなくペスト菌と確認されました。東大も内科教授青山を派遣しましたが、彼はペストに感染して命からがら日本に戻って来ます。ペストは黒死病ともいい、中世ヨーロッパでは大流行により総人口の約半数を死滅させたとされる恐ろしい病気です。この様な歴史があったので、欧米各国はペストを大変恐れ原因菌の発見に全力を挙げていました。ですから、北里のペスト菌発見という業績を、世界各国は絶賛します。しかし、日本では北里は「忘恩の輩」です。北里の発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が科学的証拠も無しに次々と発表されました。森鵬外もその一人でした。こうして北里が日本で散々叩かれている最中の1901年、科学界にビッグ・イベントが誕生します。ノーベル賞です。欧米では国を挙げての獲得運動に走り、コッホの弟子であるベーリングが第一回のノーベル医学生理学賞を獲得します。受賞理由は、「ジフテリア血清療法の開発」。血清療法は医学に革命をもたらした治療法であり、ノーベル賞受賞は当然ですが、ベーリングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎません。しかし、ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があったのに対し、北里は国を挙げて足を引っ張られていたという決定的な違いがありました。日本はこうして、ノーベル賞の最初のページに日本人の名前を残すという栄誉を自らの手で逃してしまったのです。1914年、北里の伝染病研究所は突然東大に乗っ取られ、北里以下、所員全員は辞表を叩きつけて伝染病研究所を去ることになります。しかし、北里は北里大学の創立、慶應大学医学部初代学部長就任と活躍を続け、1931年に78歳で亡くなりました。北里が取れなかったノーベル医学生理学賞を日本人がようやく受賞するのは、北里の死後56年経った1987年でした。

 われわれ北海道立衛生研究所では、今年、道内としては初めて患者さんの傷口から破傷風菌を分離しました。これには、北里の開発した嫌気培養法を用いただけでなく、遺伝子工学など最新の技術も導入しています。ノーベル賞とは無縁かも知れませんが、先人達の築いた伝統を受け継ぎながら、先端の学術的知見や研究結果を道民の方々に還元すべく日々努力しているのです。

■木村浩一(きむら こういち) 氏
1985年北大医学部卒業。ボツリヌス毒素の遺伝子解析、大腸菌O157の無毒化、ピロリ菌の胃癌形成過程の解析、ライム病病原体遺伝子の検出などに取り組んでいる。