眠る遺伝子
北海道立衛生研究所生物科学部主任研究員 川瀬史郎

最近の遺伝学はちょっと違う
 何事も基本は単純で分かりやすいもの。遺伝の基本はメンデル。学校で、優劣、分離、独立の三法則を習ったことを覚えている人は多いはずです。また、血液型の遺伝もかなり一般的かもしれません。しかし、遺伝現象は、このように分かりやすいものばかりとは限りません。

 分子遺伝学の進歩により、従来のメンデル遺伝学では説明できなかった、いわゆる非メンデル遺伝現象の具体的メカニズムが、次々と明らかになっています。
 また、これまで脇役だったRNAの新たな働きが俄然脚光を浴びています。それは分かりやすい遺伝学とはひと味違う、奥深い進行形の遺伝学です。生物学の教科書は日々更新されるべき運命にあるのです。

遺伝を担う染色体
 生物の遺伝を担うのはDNAと呼ばれる細長い糸状の物質です。そのDNAの糸のところどころに遺伝子領域が点在しています。
 DNAは細胞の核にありますが、普段は顕微鏡で観察しても見ることはできません。しかし細胞分裂の際は、細長い糸がいくつかの集団に分けられ、折りたたまれてまとまった塊(染色体)となり、観察できるようになります。染色体は父と母由来のそれぞれ1本ずつがセットになっています。ヒトの染色体は23セット計46本です。そのうちの1セットは性染色体といって、男性と女性で異なります。女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつのセットです。

 Y染色体の役割は、主に男性を決定することにしかありませんが、X染色体には性に関係なく生存に重要な遺伝子が沢山あります。大切な遺伝子を担う染色体の数は厳密に決められていて、もしこれに過不足があると生存に深刻な影響が生じます。 男性はX染色体が1本で、女性は2本という不均衡がありますから、どちらかに重大な影響が出ても不思議ではありません。X染色体には、これを回避する巧妙なしくみがあります。それが有名なライアンの仮説といわれ、女性の2本のX染色体のうちどちらか1本を眠らせることにより、男性と数を合わせているというのです。

 英国の女性科学者により1961年に提唱されたこの仮説は今では実証され、片方のみを眠らせるそのメカニズムもほぼ解明されています。眠らされた特徴あるX染色体は女性の細胞にしかありませんから、それを目印にセックスチェックに利用されたこともあります。

X染色体がかかわる生物現象の一端
 女性の2本のX染色体のうちどちらが眠らされるのでしょうか? それはランダムに選択されます。すなわち、女性の細胞のあるものでは、父由来のX染色体が眠っており、別の細胞では母由来のX染色体が眠らされているという具合です。どちらを眠らせるかが一旦決まると、その細胞から分裂して増えた細胞はすべて、元の細胞と同じ親由来のX染色体が眠っています。
 したがって見た目にはわかりませんが、女性の皮膚は、父由来のX染色体が眠っている細胞領域と、母由来のX染色体が眠っている細胞領域が、まるでパッチワークのように混じり合っていることになります。これは血液中の白血球などの細胞群にもあてはまります。女性の細胞の片方のX染色体は眠り続けますが、卵子が形成される段階で眠らされていたX染色体はリセットされ目覚めることになるのです。

 もし、X染色体上の遺伝子に突然変異が生じると、X染色体を1本しか持たない男性では、その影響がすぐに現れます。しかし、X染色体が2本ある女性では、1本のX染色体に突然変異があっても、目覚めている正常なもう1本によって補われ、影響が現れることはめったにありません。このように性別によって異なる遺伝を伴性遺伝といいます。

由来する親により眠る遺伝子
 性染色体以外の染色体は、すべて同じ2本ずつなので、その由来を区別して片方を眠らせる必要はありません。したがってこれらの染色体にある遺伝子は、父と母由来のものがそろって行動することになります。
 しかし、ある種の遺伝子では遺伝子単位で父由来のものだけが眠ったり、その逆に、母由来のものだけが眠ってしまうものがあります。この現象を遺伝的刷り込みといいます。このような特殊な現象を示す遺伝子は、今までに100個ほど見つかっています。

眠ったり、突然変異が起きるのは遺伝子だけではない
 遺伝的刷り込みが起きるのは、特殊な遺伝子に限りません。遺伝子から離れた前後のDNAに起きる場合があります。
 この部分は遺伝子を連結しているだけと考えられていましたが、実際には遺伝子の働きに重大な影響を及ぼす場合があることが分かってきました。この部分は遺伝子ではないので、タンパク質をつくる情報は持っていません。しかし遺伝子の働きを制御する情報を持っていることがあるのです。そこに、遺伝的刷り込みなどが生じると、由来する親により眠らされたり、目覚めたりして情報操作をするのです。しかもこの情報操作は体のすべての細胞に同じように起こるわけではなく、ある特定の臓器や特定の時期に起こったりします。

 突然変異は遺伝子にだけ起きると思いがちですが、遺伝子以外のDNAにも当然起きます。そこが遺伝子の働きに重要な影響を及ぼす箇所であれば、遺伝的な混乱を招き、生存を脅かすことにつながりかねません。従来、遺伝子間の連結部分の突然変異は、淘汰に結びつくようなことが少ないとされ、この部分の突然変異は蓄積されると考えられていました。多くの場合はそのようなのですが、例外もあるようなのです。

DNA配列が不変のままの眠り
 突然変異は、DNAの配列変化であるのに対し、今まで述べてきた遺伝情報の眠り(X染色体の眠りや、遺伝的刷り込みなど)に関しては、DNAの配列に変化は起きていません。
 遺伝情報の読みとりはDNAの糸が長く伸びた状態で、読みとりに関与するタンパク質がこれに接近して開始します。
 したがってこの糸の一部に糊みたいなものがくっついて、糸が伸びきらなかったり、読み取りを開始させるタンパク質の接近を邪魔するものがあると、遺伝情報を読みとることができなくなります。実際、DNAの糸には糊が付きやすい部分と、そうでない部分があることが分かっています。糊付けされるとDNAの配列は変わらないまま、情報は眠らされ固定されてしまうのです。細胞内でこの糊の役割を果たしているものが、いくつか分かっています。そのうちのあるものが、女性のX染色体の眠りにかかわっていたり、またあるものは、遺伝的刷り込みの眠りにかかわっていたりします。この他に、遺伝情報の選択的読み取りに、この眠りの機構が働いています。

 例えば、眼ではレンズの遺伝情報は目覚めていなければなりませんが、髪の毛が生えては困ります。眼では髪の毛の遺伝情報は眠らされているのです。
 このように、遺伝情報を選択して眠らせたり目覚めさせたりする機構の存在は大変重要なものです。これが正常に機能しなければ、生体の維持に様々な問題が起きることになります。癌や色々な病気の発生と、この遺伝子の制御機構との関連に注目した新しい研究が現在盛んに進められています。

 当施設で確立された胃がんモデル動物は、胃壁に対する自己免疫を発端とし、胃がんにまで進行するユニークなものです。
 発症する動物が雌に偏っていることから、X染色体上の免疫関連遺伝子にかかわる制御異常の有無に注目しています。雄に1本しかないX染色体は必ず母由来なのに対し、雌のみが持つ父由来の1本のX染色体にその原因があるのかもしれません。すなわち、父由来の場合に限り現れるX染色体性の遺伝的刷り込み異常を疑っているわけです。自己免疫疾患が女性に多いことと関連づけて考えると一層興味深いモデルといえましょう。

川瀬史郎(かわせ しろう)
網走生まれ。1970年弘前大学理学部卒業。製薬会社の研究所に勤務後、1975年Uターンで北海道立衛生研究所に転職。ヒトの病気の動物モデルに関心がある。2003年より現職。

この記事は、2007年12月10日に「しゃりばり」ウェブページに掲載されたものです。