記憶喪失性貝毒
北海道立衛生研究所生物資源管理科長 上野 健一

 四方を豊かな海に囲まれて生活する日本人は、昔から魚介類を重要なタンパク源として食生活に取り入れてきました。貝類は美味の上、アミノ酸やミネラルを 豊富に含んでおり、近年では、健康志向の高まりから、欧米諸国においても注目されるようになり、国内外で消費が増えています。しかし、食用としている貝類 が時として有毒化して、食中毒の原因となることがあります。
 貝が有毒化する原因のうち、貝自身が作り出す毒によるものはごくまれです。多くは食 物連鎖という外的要因によりおこります。貝は海水中のプランクトン(渦鞭毛藻や珪藻類等)を餌として食べていますが、これらが作る毒が貝に蓄積されること で有毒化します。貝毒には、食中毒症状の違いから「麻痺性貝毒」、「下痢性貝毒」、「記憶喪失性貝毒」、「神経性貝毒」の四種類が知られています。毒が熱 や酸に対して抵抗性が強いことは共通していますが、原因となるプランクトンの種類や有毒成分の違いにより、症状が異なります。代表的な貝毒である「麻痺性 貝毒」及び「下痢性貝毒」については、本誌(2003年8月号)、北国生活、それぞれの科学(8)で述べましたので、ここでは、記憶喪失性貝毒について紹 介します。

記憶喪失性貝毒とは
 カナダの小説家モンゴメリ原作の「赤毛のアン」の舞台となったカナダ東海岸のプリンス・エドワード島周辺で、1987年11月〜12月にかけて養殖ムラ サキイガイ(ムール貝)を食べた人たちの間に奇妙な食中毒が発生しました。消化器障害(悪心・嘔吐、腹痛、下痢)と神経障害(頭痛、食欲減退)が主な症状 ですが、重症患者には見当識障害、記憶障害、痙攣、昏睡等が現れ、患者107名のうち4名が死亡、12名に記憶障害の後遺症が残りました。死亡した4名に は、主に脳内の海馬(学習・記憶に関与する部位)に神経細胞の破壊が認められました。
 調査の結果、ムラサキイガイからアミノ酸の一種であるドウモイ酸が検出され、原因物質として特定されました。そして、記憶喪失という特徴ある症状から、ドウモイ酸は「記憶喪失性貝毒」ともいわれるようになりました。

ドウモイ酸の科学
 ドウモイ酸は、鹿児島県徳之島で回虫駆除に服用されてきた紅藻類フジマツモ科のハナヤナギ(地方名:ドウモイ)から1958年に分離され、地方名にちな んで命名されました。ドウモイ酸が記憶障害を引き起こすのは、その化学構造に原因があり、その一部にグルタミン酸の構造を含みます。グルタミン酸は、ごく ありふれたアミノ酸ですが、脳の中で興奮性の神経伝達物質として働いています。特に海馬では、グルタミン酸は、学習・記憶の形成に重要な役割を担っていま す。
 ドウモイ酸も興奮性のアミノ酸ですが、グルタミン酸とは異なり、本来、ヒトの体内には存在しません。
 しかし、有毒化した貝などと ともに体内に取り込まれた場合に、ドウモイ酸はグルタミン酸が作用する部位(受容体)に結合して受容体を活性化し、神経細胞を過剰に興奮させます。ドウモ イ酸の作用は、グルタミン酸よりもはるかに強力で、その受容体が高密度に分布している海馬の特定の領域の神経細胞を選択的に破壊することが知られていま す。これが記憶障害を引き起こす原因とされています。

ドウモイ酸を産生するプランクトンと生物の毒化
 カナダでの記憶喪失性貝毒の原因生物は、当時湾内で赤潮を形成していた珪藻類と同定されました。麻痺性貝毒や下痢性貝毒は渦鞭毛藻が主な原因生物であ り、これまで珪藻から貝毒が検出された例はなかったことから、一躍脚光を浴びました。その後、数種類の他の珪藻類でもドウモイ酸が産生されることがわか り、このうちのいくつかの種類は日本沿岸でも確認されています。
 カナダでの事例以後、世界各地でモニタリング調査が行われ、北米、ニュージーラ ンドなどで、イガイ、ホタテガイ、カキ、マテガイ等に同様の有毒化が報告されました。貝類以外ではカニ(ダンジネスクラブ)や魚類(カタクチイワシ、アジ 等)での報告があります。また、北米ではドウモイ酸で有毒化したカタクチイワシを摂食した海鳥や海獣の大量斃死なども報告されています。

貝毒の監視体制
 貝毒による食中毒は時として重篤な症状を引き起こすことから、食品衛生上、その対策が極めて重要です。
 日本を含めた先進国では、貝類の安全性 を確保するため、貝毒の検査体制が確立されています。輸入される貝類は、厚生労働省の検疫所で、また、国内産の貝類については各自治体の検査機関等で検査 が行われています。わが国では、「麻痺性貝毒」及び「下痢性貝毒」については規制値が設けられ、規制値を超えた貝類は食品衛生法により出荷が禁止されるた め、市場に流通する貝類は、これらに関する安全性が確認されています。一方、「記憶喪失性貝毒」による貝類の汚染は、日本では今のところ確認されていませ ん。しかし、欧米諸国ではドウモイ酸に関して規制値が設けられており、わが国でも国内産の貝類を欧州連合(EU)へ輸出する際には、この基準に従っていま す。そのため、当所においても、北海道沿岸で生産される貝類のドウモイ酸濃度を調査していますが、これまでドウモイ酸による汚染は確認されていません。
 当所では、道内産の貝類について貝毒検査を30年以上にわたって実施し、また、貝毒に関する研究も行ってきました。今後とも、貝毒による食中毒を予防するための試験検査、調査研究の充実を図りたいと考えています。
 なお、道では、以下のWebサイトで北海道貝毒情報を公開しています。
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/ske/contents/kaidokujyouhou/kaidokujyouhou_top_4.htm

プロフィール:うえの・けんいち。北海道大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)。1995年、北海道立衛生研究所勤務。生物科学部生物資源管理科長。貝毒に関する試験検査、調査研究に従事。