キツネと狂犬病
北海道立衛生研究所生物科学部衛生動物科研究主査 浦口宏二


36年ぶりに患者発生!

 昨年11月、フィリピンから帰国した2人の日本人男性が相次いで狂犬病を発症し、死亡したことは記憶に新しいところです。「いまどき狂犬病なんて!」そう思った方も多いことでしょう。確かに日本では36年ぶりの発症でした。ただ、1970年の例も昨年の例も海外でイヌに咬まれたヒトが帰国後発症したもので、日本国内で感染したわけではありません。国内での感染例は1954年が最後であり、わが国では実に50年以上も狂犬病が発生していないことになります。
 しかし、このような国は珍しく、日本や英国、北欧などごく一部の国を除いて狂犬病は現在も世界中で発生しているのです。

狂犬病とは
 狂犬病は、主に発症した動物に咬まれることで感染するウイルス性の人獣共通感染症です。ヒトの場合、潜伏期は15日〜1年以上とばらつきがありますが、通常1〜3カ月で発熱や食欲不振、咬傷部位の知覚過敏などの症状が出ます。進行すると、高熱、幻覚、麻痺などが起こるほか、患者の約半数に、水を飲むとき強い痛みを伴う痙攣が起き、水を避けるようになるため「狂水病」とも呼ばれます。イヌだけでなくすべての哺乳類が感染し、一旦発症すると治療法がないためヒトも動物もほぼ100%死亡します。WH0(世界保健機関)の推計では、世界中で毎年5万5000人ものヒトがこの病気のために死亡しています。 しかも、そのうちの約6割はアジアで起きているのです。ただ、狂犬病はワクチン接種によって予防できる病気でもあります。ヒトの場合、発症動物に咬まれた後でも、ただちにワクチン接種すれば発症を防ぐことができるのです。

狂犬病の再侵入
 わが国は、大正時代以来、イヌへのワクチン接種、野犬の捕獲、飼い犬の登録などの対策を徹底して行ったため、約50年前に狂犬病を撲滅することができました。しかし、世界の狂犬病の流行状況を見れば、国際的なヒトと動物の行き来の増加に伴い、海外から狂犬病に感染した動物が持ち込まれる可能性は高まっていると考えられます。このような危険性に対し、わが国はいわゆる感染症法や狂犬病予防法等を改正し、動物の検疫の拡充や輸入届出制度を新設するなど、制度的には侵入阻止の体制を整えてきました。しかし、検疫のすり抜けや動物の密輸、外国船からの動物の不法上陸などの可能性は依然残っており、狂犬病侵入のリスクがゼロになることはないと考えられます。特に北海道には、狂犬病流行地であるロシアから年間4000〜9000隻の船が寄港しており、その約6割にイヌが乗せられているという報告もあります。これらのイヌがしばしば無検疫のまま上陸しているのが目撃されており、これが万一狂犬病に感染していれば極めて危険な状況と言えます。このため北海道では、外国船の船員に対する啓発活動や埠頭の監視など、港湾部から狂犬病が侵入するのを防ぐための対策が行なわれています。

イヌの病気?
 狂犬病という名前のせいか、これを「イヌの病気」と思っている人は多いようです。しかし、世界的に見ると狂犬病には2つの流行パターンがあります。アジアに広く見られる「都市型流行」ではイヌが主な感染動物ですが、欧米で見られる「森林型流行」では感染動物は主に野生動物なのです。森林型流行における主要な感染動物は地域によって異なり、北アメリカではアライグマ、スカンク、コウモリ、ヨーロッパではキツネとなっています。
 わが国でかつて見られた狂犬病は都市型であり、現在の狂犬病対策もイヌでの流行阻止を主眼としています。これまでの経緯を考えれば、妥当な対策であると言えますが、全国一律この考え方でよいかについては懸念があります。

北海道の特殊性
 それは、北海道に本州以南とは達った特殊性があるからです。その特殊性とは、野生動物の数が多いこと、特にヨーロッパで主要な感染動物となっているキツネが多数生息していることです。北海道にキツネが多いといっても、具体的に何頭いるか分かっているわけではありません。ただ、いくつかのデータから傍証を得ることができます。たとえば狩猟統計です。わが国では、狩猟期にハンターが自由にキツネを捕獲することができます。この狩猟頭数を地域ごとに比較するため、年間狩猟頭数をその地域の面積で割った指数や、年間狩猟頭数をその地域のハンター数で割った指数が提案されています。これらを比較すると、北海道では本州、四国、九州の数倍から数百倍の数のキツネが捕獲されていることが分かります。また、別のデータとして高速道路における事故頭数があります。日本全国の高速道路で1年間に回収されるキツネの死体数を道路1km当たりで比較すると、これも北海道では本州以南の数倍から数十倍も多いことが分かります。
 これらのデータから、正確な頭数は分からないものの、北海道には本州以南よりもはるかに多くのキツネが生息していると考えることができます。

キツネ

臨界寄主密度
 このようにキツネの多い北海道に、もし狂犬病の動物が侵入したら、そしてその動物がキツネを咬んだとしたら、北海道のキツネに狂犬病が広まるのでしょうか? 実は、狂犬病が、ある地域に侵入したとき、そこに定着し流行が拡大していくためには「臨界寄主密度」があるとされています。すなわち、動物の生息密度が一定以上なければ感染は広がらず、狂犬病はやがて消滅してしまうということです。ヨーロッパの狂犬病の場合、キツネの臨界寄主密度は約1頭/km2であったといいます。もし、北海道にもこの数値が当てはまるとすれば、北海道のキツネに狂犬病が広がるかどうかは、頭数が1km2当たり1頭以上いるかどうかにかかってきます。
 先に述べたように、現在北海道に何頭のキツネが生息しているかは不明です。しかし、道立衛生研究所が調査を行っている根室半島では、少なくとも、1年のうちの一時期は1km2当たり1頭以上のキツネがいることが分かっています。それでは、道内のほかの地域ではどうなのか。今後、北海道の野生動物、特にキツネに狂犬病が広がる可能性を判断し、その危険性を評価するために、全道的な生息数調査を行う必要があるでしょう。

終わりに
  日本では、現在のところ狂犬病は発生していませんが、ヒトが万一狂犬病の疑いのあるイヌや野生動物に咬まれたとき、その動物が本当に狂犬病なのかどうかを調べることは、ヒトへの感染を防ぐ上で極めて重要です。道立衛生研究所では、北海道保健福祉部食品衛生課と協力し、狂犬病が疑われる動物の検査体制を整えつつあります。
 日本で再び狂犬病を流行させないために、ワクチン接種や登録などのイヌ対策、疑わしい動物の検査体制の確立、そして野生動物への注視、これらすべてが必要であると思われます。

■浦口宏二(うらぐち こうじ)氏
神奈川県川崎市出身。1988年北海道大学大学院農学研究科修士課程修了。1988年北海道立衛生研究所衛生動物科勤務。以後、人獣共通感染症媒介動物としてのキツネの生態調査・研究を行うほか、各種衛生害虫、寄生虫の同定業務に従事。

 
 

この記事は「しゃりばり」No.300(2007年2月)に掲載されたものです。